硬派の宿命・野望篇

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「黒F」近影

今、こんなスタイルで持ち歩いてます。

76790362.jpg

レンズは Ai Nikkor 45mm F2.8P のシルバー。
ストラップは ARTISAN & ARTIST の組紐タイプ(朱色っぽい赤)。
シャッターボタンにはAR-1を装着。
フィルムはカラーネガ現像可能なモノクロの Kodak BW400CN。

これに単体露出計(SEKONIC ツインメイト L-208)を念のために携帯(基本、勘露出)。

携帯性と共に、イカツい「F」が平成の街並にも溶け込む様、考慮した次第。
どーですかッ!

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黒塗りの "F"

「エッ、今やブラックのニコンFがこんな値段で買えるの?」

という驚愕の事実を店頭で知った数分後にショウケースからブツを取り出して貰い暫し操作。更に数十分後には手提げの紙袋をブラ下げて家路に就いていた。急速なデジタル化による銀塩カメラの価値の暴落と世界的なデフレが私にこの様な突発的行動を行使させたのである(あくまで状況に責任転嫁する)。

ニコンの銀塩一眼レフカメラ製品一覧

シルバーのFは5年ほど前に所有していた時期がある。ブラックはまだ高くて買えなかった。
当時はライカM3も所有していて、ベトナム戦争時に戦場で活躍したという背景を持つ両機種を並べて「こいつらも激動の時代を乗り越えて今自分の手元に在るのだなあ」なんて感慨に耽っていたものだ。
その後、時代はすっかりデジカメ主流となってしてしまい、私もご多分に漏れずそちらに投資しなけらばならなくなり、金策の為に殆ど使用する機会が無くなっていた銀塩一眼レフをあらかた手放してしまった。残ったのはデジタルでも使えるレンズばかり。夢想は現実に敗北したのであった。

現在の使用目的に見合ったデジタル機材が一通り揃ったところで、再び機械式銀塩カメラが欲しくなった。感傷的かも知れないが、昔から憧れていた黒塗りの一眼レフ(私たちの世代だと、ニコンならF2かF3、キヤノンならF-1かNew F-1が垂涎の的だった)を自身の傍らに置いておきたくなった。そこでこのブラックのFに出会してしまったのだ。これはもう当然の成り行き...である。

DSC_0009.jpg

露出計が付いてないからラチチュードの広いネガフィルムを詰めて、「カメラ女子」みたいに長いストラップをタスキ掛けにして気軽にブラパチするのだ!

伯父さんのPEN S

3年前の初夏。
その年の春に亡くなった父方の祖母の法要の件で親族が集まった際に母が携えて来たものがあった。それは使い古されてぼろぼろになったレザーケースに入った小さなカメラだった。

RIMG0027.jpg

OLYMPUS-PEN S

1959年に発売され60年代を通してベストセラーとなったオリンパスのハーフサイズカメラ「ペン」シリーズの第二弾が本モデルである。
当時としても廉価なカメラではあったが、手に取ってみるとズシリと重く、精密機械が凝縮されている様子が判る。外装のクローム鍍金も強固で美しい。当時の日本の工業製品の作り込みは凄いの一言。
一見新古品と言われても差し支えがない状態。だが...

「伯父さんがね、これ壊れちゃったって。シャッターが押せないみたい。それであなたなら直せるんじゃないかって。一応渡しとくわ。」

そのカメラは母の長兄の所有物だった。若い頃から車や機械などのガジェットに拘る洒落者の伯父らしいカメラ選びだなと思った。ひょっとしたら幼少期の頃の私もこのカメラの被写体になっていたかも知れない。

仙台に住む伯父は数年前から体調が悪く、自宅で療養していた。それで妹たち(母と末妹)が頻繁に仙台へ赴いていたのだが、ある日伯父から突然このカメラを渡されたそうだ。「あいつなら直せるんじゃないか?」と。

しかし残念ながら、私は機械式カメラを修理するスキルなど持っていない。
そこで丁度、渋谷のデパートで開催された中古カメラ市で入手したライカのレンズを修理業者にオーバーホール依頼していたので、受け取りの際に件のシャッターが押せなくなったPEN Sを持参して行った。

小石川にあるマンションの応接間で、預けていたレンズを受け取った後に修理業者の方にPEN Sの修理をお願いしてみた。

「基本的に国産品の修理はお受けしてないんです。それはメーカーさんがやるべき事なので。ちょっと見せて下さい...」

PEN Sを渡す。業者さんは馴れた手つきでカメラを点検し始めた。

「これ、どこも壊れてはいませんよ。レンズシャッターの羽根が張り付いて動かなくなってるだけです。よくあることですよ。」

そうですか、と私は予想しなかった返答に少し驚きながらも、何故このカメラが自分の手に渡ってきたのかという経緯をついでに話してみた。
すると突然、奥の作業部屋からオーナーと思わしき年配の男性が顔を出して私にこう言った。

「じゃあ今回はシャッターの清掃だけしときましょう。分解すると大変だから。お時間ありますか?」

私は頷いた。すると綺麗に整頓された作業部屋に通されて、オーナー氏自らが机に向かい洗浄液を付けた筆でシャッター羽根を1枚1枚丁寧に清掃している過程を背後から観察する。どんな業種であろうと本物のプロの手捌きは芸術的な美しさが感じられるものだ。

清掃の終わったPEN Sの作動確認をする。パチンパチンとシャッターが切れるようになった。レンズから見える羽根が子気味良く動いているのが分かる。その後さらに劣化したモルトの交換までして貰った。

この分の修理料金を尋ねてみると、無料でいいとのこと。恐縮する私。
そして帰り際にオーナー氏からこう言われた。

「おじさんのカメラ、大事に使って下さい!」

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先日、伯父が亡くなった。
フィルムを詰めたPEN Sで通夜と葬儀を撮影した。それが自分とこのカメラにに課せられた義務のような気がしたからだ。ハーフサイズだからさして枚数を気にせず矢継ぎ早にシャッターが押せた。

通夜が終わった直後、教会の通路で伯母にPEN Sが今も現役で使えることを報告した。

「あら、本当? 伯父さん、いろんなカメラ屋さんに聞いてみたけど直せないって言われて諦めてたのよ。きっと喜んでるわ。これからも使ってあげてね。」

今、なぜか LEICA M8

この9月、遂に初のフルサイズのライカM型デジタル"M9"が発売となった。
発表当初は予想以上に価格が抑えめで、「よっしゃ、いってみるか」と買う気満々だったのだが、冷静に考えてみてやはり高価(70万円)。

しかもネット等の情報で早期購入された方々から思わぬ欠点(広角レンズ使用時のオッドシフトと指摘されているもの)の報告が相次ぎ、悪名高きM8に引き続きまたしてもか...という思いに購入意欲がどんどん失せていった。

だがM型デジタルが欲しい、という気持ちは抑えられない。

これまで所有するLMマウントレンズ群をデジタルで使う為にR-D1sを使用していたのだが、やはりフィルム時代のM型に馴れた身体には少々使い勝手が悪かったというか、やはりあくまでR-D1シリーズは良くも悪くも「他社製Mマウントカメラ」であって決してM型ではなかった。携帯性や手に持った時のフォルム、剛性感という使用する上での感触は道具として重要だと思う(俗っぽいブランド指向的「高級感」や「充足感」ではなく)。ここは譲れない。

で、市場を眺めると、旧型となったM8/8.2が、M9の登場で値崩れしている。中古ならば尚のことである。
そこで考えた。「決定版」かと目していたM9もどうせ完璧でないのなら、いっそのこと対象をマイナス要素ばかりのM8に振り切ってしまってはどうだろうか、と。今なら値段も安いし。

ローパスレスによる高解像度の犠牲として撮像が赤外被りするのを補正する為に装着するUV/IRフィルター使用時の副作用としての周辺のシアンドリフト(35mm以下の広角の場合)、及びそれをデジタル補正する為のレンズマウントへの6bitコード加工の必要性。
こうしたメンドウな「作法」がこれまでM8購入を見合わせたマイナス要因であった(センサーサイズによる画角の変化はAPS-Cに馴れた今はあまり気にならない)。

だが、逆に考えればこれらをすべてクリアすれば問題なく高品質な画像を得ることが出来る。それこそM8発売から3年を経た現在では、先達ユーザーの方々がこれまで悪戦苦闘して身に付けた対策がネット上に散在している。その3年分のノウハウが今ではいっぺんに習得出来るというわけだ。

おそらく当時のユーザーの多くはM8を手放して順当に最新のM9を購入されているのではないだろうか。それがデジカメという家電製品の宿命でもある。

そんな流れで中古市場に放流されたM8が、我が家に1台漂着した。

L1020173.jpg

カメラは薬だ

一夜明けて、ほぼ復調しました。
やはり睡眠と、美味くて栄養のある食事をしっかり摂っていれば病気や怪我はみるみる治癒していくものなのだなと、こういう時ほど実感しますね。

あと大事なのは、能動的な想像力というか、体調が悪い時間をやり過ごす際、如何にポジティヴに物事を考えていくかということも重要だと思います。
こんな時に政治や仕事や将来の不安といった日頃のネガティブな事象を考えたらあきまへん。ひたすら精神と肉体の回復に集中し、一切を放棄するのが吉。

で、私がここ数日、熱で朦朧としながら考えていたのがカメラの買い足し。
結果として、これが一番の「薬」となりました。

このところ魅力的な商品が相次いで発表されているデジカメ市場ですけれど、最もインパクトがあったのは何と言ってもライカM9でしょう。
leica_m9

本機は、遂にM型ライカにフルサイズの撮像素子を搭載したというのが最大のアドバンテージですが、そのスペックを踏まえた発表前の予想よりも大幅に下回った価格設定に正直気持ちがグラついてます。とにかくUV/IR関連の問題をクリアしたというだけで、その一点でM8/M8.2の購入を見送った私にとっては十分な動機になっている状況。これで愛用しているレンズの性能も十分に引き出せる(あまり専門的な講釈はこの辺で止めておきます)。

思えばこれまでデジカメの購入に関しては妥協の連続でした。実際、ここまで私を奮い立たせるものは初めてかも知れない。

同時に発表された廉価モデルのX1もまた魅力的な仕様。
デジ一中級機と併せて気軽に使ってみたいと思わせる、古き良き時代の距離系の付いてないタイプの「バルナックライカ」を彷彿とさせるデザイン。でもこれがあったら完全に銀塩ライカを使わなくなってしまいそうだ...。

なんてことを熱にうなされながら考えていたら、全身の細胞が活性化されたのか、すっかり風邪が治ってしまいました。
あとは夢の実現に向けて邁進するのみ。

敗戦国の誉れ

先日、格安入手した再生産S3に装着するレンズを購入した。
折角のS3ということもあり、私がレンジファインダーを使用する際に最も好んでいる35mmの画角に拘った。当初は純正のニッコールF1.8辺りを候補にしていたのだが、たまたま店頭に出物があったのでオールド・コンタックスの戦後型ビオゴンに決めた次第。実は以前から使ってみたい1本だった。

L1010441.jpg

「Zeiss-Opton」名義のこのレンズは、第二次世界大戦終結後の東西に分断されたドイツのカール・ツァイス財団の西側に設立された「ツァイス・オプトン社」によって1951年より製造が開始された。
戦前は、後の東側に位置するイェーナにあった世界最先端の光学メーカーのカール・ツァイスだが、敗戦によりソ連の統治下に置かれる直前にアメリカ軍の手によって多くの優秀な技術者を西側へと移送させ(「欲しいものは絶対に手に入れる」という、実に彼の国らしい強引なやり方である)「ツァイス・オプトン社」として再建。以降も世界最高峰の光学機器の生産を存続することになる(後に「カール・ツァイス」に変更)。そして89年のベルリンの壁崩壊によって、国家と共に両社は再び統合された。

片や、日本のニコンも同じ大戦によって翻弄されたメーカーだった。
第一次世界大戦中に三菱の資本によって設立された「日本光學工業」は軍需メーカーとして躍進していたが、太平洋戦争の終結に伴い民生品の生産へとシフトせざるを得なかった。
当初はカメラ生産のノウハウもなかったそうで、ライカやツァイスという世界に名だたるメーカーの製品を参考にし、当時の技術者による研鑽の結果、海外のフォトジャーナリストたちにその品質や性能を認められ、日本の高度経済成長期を支えるほどの世界に名だたるカメラメーカーとなり現在に至る。

戦前・戦後のツァイスの「Contax」と当時のニコンの「Sマウント」は装着する分には互換性がある。厳密に言えばフランジバック(レンズのマウント面からフィルムまでの距離)の僅かな違いで長焦点は使用不可だが、広角~標準レンズはまずまず問題ないらしい。

ある意味、この組み合わせは邪道かも知れないが、自分はやってみたかったのだ。

敗戦によって運命を弄ばれた二つの国の二つの会社。戦後の激動の転換期に彼らが生み出したものが、今私の手の中でひとつになり、いつ何時でも撮影可能な状態で佇んでいる。

久々のDSLR

D5000の登場でディスコンとなったD60を「敢えて」「今さら」購入した。

L1010420.jpg

元々、ニコンの小型で低価格な一眼エントリー機が一台欲しかった。
あてもなくぶらぶらと街歩きしながら目についた風景をスナップするのが主な私にとって、バカでかく重たいフラッグシップ機や中級機では嵩張って仕方がないのだ。旅先なら尚のことである。

D5000も視野に入れていたのだが、いかんせん動画やらバリアングル液晶といった余計な機能が付いていて値段も高い。あと、どんなものであれ「最新型」を持つという行為がどうにも恥ずかしくて餓鬼の時分から性に合わない(これは「江戸っ子気質」に相反する思考だが、所詮私は2/3であり、現代を生きる「東京人」だからまったく問題ないのである)。

ニコンに拘ったのは、我が家には銀塩時代の古いニッコール・レンズが何本も死蔵されているからだ。これらはAi改造されていない物だから下取りに出しても二束三文だという後ろ向きな理由もあったが、当時のオートニッコールは総金属製で絞りやフォーカスリングにまで綺麗にペイントが施されている。それらが長年の使用で剥がれ落ち地金が露になっているローレット部の「手擦れ」状態がなかなか美しくてどうしても手放せなかった(非常に「日本美術応援団」的発想だな、これ)。

要はこれらのレンズ群をどうにか活用しようと思った。しかし某他社製ボディにマウントアダプターというのもわざわざ状況を複雑にするようで回避したかったのは正直な話(それだけの理由ではないが)。

専門的な話になるが、こうした非Aiタイプのレンズは同じFマウントでもエントリー機にしか装着出来ないらしい。しかも制約が多く、露出計に連動しないからカンで撮影する。上がりはその場で液晶モニターを見て判断するという具合。これがマニュアルカメラ的で面白く、勘露出の訓練にもなる。
以前は旧型のD50でこのような撮影を楽しんでいたが、ファインダーの見辛さと液晶の小ささに難儀してた。この辺も後継機(間にD40とD40Xが入るが)のD60になるとある程度解消されているので快適だ。現代のデジカメに古びた60年代のレンズを装着するという見てくれのコントラストも自分好みである。

そして作品の為のマテリアルを撮影する際は機動性を重視し、割り切って最新の高倍率ズームを使う。ようやくデジタルとの付き合い方の距離感が理想的になってきた模様。

硬質なる憐憫

先週末から渋谷の東急で開催されている中古カメラ市が今日で終わるのだが、我が家の居間のテーブルの上には何故かレンジファインダー・ニコンが2台...。

復刻S3がボディ単体とはいえ、こんなに安くなっているとは驚いた。
発表時の熱狂を知っているだけに、ここ数年ですっかりデジタルに駆逐されてしまった銀塩カメラの扱いに悲哀を感じた...だからと言って「消えゆくもの」に対する憐憫の情で購入したわけではないが。

購入した晩に、本機の製造プロジェクトを担当した水戸ニコン工場閉鎖の報を知る。おそらく、これでニコンの往年の名機が再び復刻される機会は二度と失われてしまったであろう。
おかげで、少々センチメンタルな気分になった。この機に遺産を入手しておいてよかったと思う。

しかしボディ2台に対して、Sマウントのレンズが1本しかない。どうしたものか。

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ゲバラと「S2」

古カメ道の深い森に踏み込んで10年。ついにニコンのレンジファインダーへと到達してしまった。
もし最初に手に入れるなら、絶対に「S2」にしようと以前から決めていたのだ。

写真が趣味だったゲバラも愛用していたという「S2」。
さすがにレンズも彼と同様に高価&稀少なF1.1というわけにはいかなかったが、かろうじて同じ後期型のブラックダイヤルのタイプが入手出来た。

「それがどうした?(世間の声)」

男はみんな真似っこしい。
誰もが憧れの誰かと同じ格好をしたり、同じ店で同じメシを食ったり、同じものを持ったりしたい。
そうやって憧れの対象に追いつくべく、自分磨きをしている「ツモリ」になっているのだ。

「それがどうした?(私の声)」

そんな崇高な男の純情が、野暮な女子供なんぞに(女の腐った野郎も含む)わかってたまるかい。

L1010312.jpg

次の標的として、中学生の頃から憧れていたロバート・キャパがインドシナ地雷を踏んで爆死する瞬間まで握りしめていたという、ひとつ前の「S」型を1台、と目論んでいる。

「それがどうした?(貴方の声)」

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