硬派の宿命・野望篇

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親殺し(高田延彦の場合)

ちょっと前にNHK教育TVで高田延彦が国内各地の名物うどん屋を訪ね、現地でうどん打ちを教わり「最高の一杯」を自らの手でを作り上げ過程を見せる番組を数週に渡って放映していた。

チャレンジ!ホビー うまいうどんを打つ!高田延彦うどん修業の旅<新><全8回>

この番組での高田は、さすがプロレス・格闘技の世界で一時代を築いたアスリートとしての集中力や忍耐力でもって現地のうどん屋の師匠からの指導を限られた時間で精一杯にこなしてゆく。その真摯な姿を見るにつけ、格闘競技者として退いた「その後」が彼に取って如何に充実しているかが垣間見れた。何より賛否両論だったハッスル時代の「高田総統」のキャラを見事に演じ切ったことにより、タレントとしての魅力も増していて実に好感の持てる番組だった。

自ら打ったうどんに舌鼓を打つ時に、天然だか計算だか判断できないようなボケをカマす高田の楽し気な表情は、まるで定年退職後に息子(弟子)たちに家督を譲ったご隠居の如き穏やかさが漂っていた。

そんな境地に至るまで、果たして彼がどれだけ世の有象無象に翻弄された挙げ句に苦悩しながら自らの身体を痛めつけてきたか、それは彼を長年目撃し続けて来た者たちにしか理解出来ないことかも知れない。
しかし、そんな経緯など知る由もない一般視聴者に向けて、現在バラエティ番組に頻繁に顔を出す大柄な元格闘家の朴訥なおじさんタレントにもこんなハードな過去があったんだよ、という事実を伝えるのも私たちの役目だろう。

競技者としてはとっくに峠を越した年齢(35歳)から新たなジャンルに立ち向かい、自ら捨て石となって息子たちに道を譲り、挙げ句は「長男」に引退試合での介錯(親殺し)を指名した男の潔さ。
それまでのプロレス・格闘技界で、ここまで誠実に、そして無様に、明確に世代交代と自らの散り際を我々ファンに鮮烈に見せつけた者は居なかったと私は断言出来る。

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以下の動画はすべて対田村潔司戦(両者の遺恨の経緯は「煽りV」を参照の事)。

93年/Uインター



02年/PRIDE.23(引退試合・煽りV)



02年/PRIDE.23(引退試合)




うまいうどんを打つ!―高田延彦うどん修行の旅 (趣味工房シリーズ NHKチャレンジ!ホビー)うまいうどんを打つ!―高田延彦うどん修行の旅 (趣味工房シリーズ NHKチャレンジ!ホビー)
(2010/05)
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何とも安っぽい殺伐

「笹原さんがね、 刺しに行けっていうんで、ちゃんとしっかり刺してきたから笹原圭一2010(笑)」

たとえ観客有りきのプロ興行とはいえ、そこは真剣勝負なのだから(ましてや団体の名前を背負った対抗戦だ)殺るか殺られるかは当然の話。怪我をするのもさせるのもお互い覚悟の上だろうし、少々行き過ぎたナマの感情がほとばしるのも仕方あるまい。

しかし、上記の青木の発言を知ってガッカリした。

ヤクザ映画のチンピラじゃあるまいし。
鉄砲玉なんて所詮、死ぬまで鉄砲玉のまま。そんな意識の低い男には残念ながら夢は託せないな。

ほっと一息 #3

たまにはプロレス動画を。今でも大好きな一戦。

97年8月10日のナゴヤドームでのグレート・ムタ vs 小川直也。
この試合目当てに、わざわざ新幹線に乗って観に行きました。



ちなみに、この日のメインだった橋本vs天山のIWGP戦は観ずに会場を後にしました。帰路はエライ土砂降りだったなあ。

今、世の中には大河ドラマが足りない

土曜日の全日横浜文体大会へ行ってきました。詳細は以下のリンクで。

全日本プロレス「FLASHING TOUR 2009」最終戦

で、肝心の船木 vs 鈴木みのる戦。

この幕切れには、正直言って「まあ、こんなものだろうなあ」という感想。
プロレスとは連続する大河ドラマであり、興行論の観点からするとチケットを買ってくれたお客をいかに満足させるかということよりも、いざ興行が始まった時点で、次にこれらのストーリーをどう転がしてゆくかということがすでに主催者側の最大の焦点となっている筈。

そもそも船木が復帰してまだ一ヶ月足らず。ここで因縁の深い両者の決着を綺麗に付けるわけがないという道理は、ちょっとプロレスを見続けている人間なら誰でも判るハズだが、それでも会場のそこかしこからは「延長!」コールやら「金返せ!」といったピュアな怒号が渦巻いていた(かと言って暴動を起こすほどのエネルギーがあるわけではない)。
また、序盤のUスタイル的展開の際には「ここはパンクラスじゃねえぞ!」やら、船木のラッシュに対してブーイングが飛び交うという排他的な状況。やはり「パッケージプロレス」を標榜する生粋の武藤全日ファンには船木のいびつなアプローチはなかなか受け入れられないのだなと実感しながら、セミファイナルとメインを観戦せずにそそくさと野毛の歓楽街へと退散したのであった。

今現在主流となっている観客はその瞬間の刹那的でミニマムな充足感を求め過ぎていると思う。レスラーたち、そして自身の人生も、この先まだまだ続いていくというのに、一体何を焦っているのだろうか(これは昭和の時代に会場で暴動を起こしたような我々世代のファンの過去も同様だったが)。
8月の両国での復帰戦も、長らく船木がファンの期待を散々スカし続けてきたからこそ醸し出せた期待と緊張感であり、そうした過程を経てようやく得ることの出来た極上のカタルシスだったと私は思っている。

結果として、相変わらず船木の今後の動向からは目が離せない。こんな特異なレスラー人生を送っている者は他に見当たらないし、過去にも存在しなかったからだ。この先の展開がまったく読めないところが実に興味深い。これからも沸点の低い平成のデルフィンたちのニーズなどには目もくれず、空気の読めない・読ませないファイトスタイルを貫いていって欲しい。

背負い込んだ過去を清算し、他者の思惑などお構いなしで道なき道を行く。
ひょっとしたら私は今、彼の人生に共感しているのかも知れない。滅多にこんなヤワな心境にはならないのだが、これもやはり年月の重みだろうか。

積年で会得した受け身的なもの

最近文章が思うように書けず、どうも強引に言葉を紡いでいる無理矢理感があるので、暫くは当ブログの更新頻度を意識的に落としていこうと思ってます。

緊張と弛緩。何事もメリハリが大事。
今眼前にあるものが永続するとタカを括らないで頂きたい。

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日曜の両国から、復帰した船木のことばかりを考えている。
頭の中で、入場テーマがずっと鳴り響いている状態。




今後、船木は純プロレス回帰で一体どうなっていくのだろうか。
新生UWF参戦直後の船木が、ボブ・バックランドにコーナー最上段からのドロップキックを放った時、私は思った。

「これだから現代っ子は! 崇高なるUの理念をブチ壊しやがって!」

当時の私は、現代の「格オタ」諸君のように「◯◯はこうあるべき」という既成概念(実は他者が設定したガイドラインに乗っかっているだけなのだが)に頭の中が凝り固まっていたのだ。
非オリジナルメンバーの余所者が理想の世界に紛れ込んで来て想定外の行動を起こし予定調和を破壊することにアレルギー反応が出てしまう狭量な性質(「タチ」と読んで下さい)だった。得体の知れない小さな神様が心の中を支配していたのである。

若い頃の方がむしろ保守的だったことって沢山あったと思う。

そんな青春という名の麻疹はとっくの遠に治癒した。
生来の"MADNESS"である船木が、まったく予想のつかない行動で再び私たちのふやけた既成概念をブチ壊してくれることを今は心待ちにしている。
26日の横浜が楽しみだ(すでに武藤社長の術中に嵌っている)。

彗星の帰還

家督を継ぎ、家業を守ってゆくことを決心した兄たちを尻目に、自らの生理と行動原理に従い家を捨て外海に打って出て行った弟。
やがて明確なる理想を掲げた彼は兄たちと同じく一家の大黒柱となるが、厳しい現実の前に挫折し、若さ故の不敵さが鳴りを潜めた途端に行き場所を失い荒野を彷徨い続けた。

家を守る者からすれば、この彗星の如く縦横無尽に世界を駆ける身勝手な弟は羨望混じりで実に疎ましい存在でもあっただろう。
ましてや彗星は自由で気まぐれだ。世の倫理や世間の期待などは、己の本能を満たす行為に比べれば屁のようなものだと考えていた。その為には他人がどうなろうと知ったことではないとばかりに。

しかし、自身の生き方に揺らぎと翳りが見えた時、その傷だらけの彗星に手を差し伸べてくれる兄弟たちがいた。迎える側も、頭を垂れて迎え入れられる側にも、度量というものが備わっていなければこの舞台は成立しなかった。

時間という魔術がすべてを解決してしまう問題はいくらでもある。
放蕩息子の帰還に心から祝福を贈りたい。

全日本プロレス「2009 プロレスLOVE in 両国 Vol.8」

観察者の特権

今月の30日、船木誠勝がプロレスのリングに帰ってくる。

船木、みのる戦へ「一戦交えてみて。でも元の関係には…」=8.30全日本プロレス

実情はともかく、新生UWF移籍以降が彼の「格闘家」としての人生だったとしたら、実に20年振りに「純プロレス」のスタイルに回帰することになる。

若干15歳でデビュー。その華のあるルックスとセンスから新日本プロレスを背負って立つ「21世紀のエース」と期待されたが、当時業界の最先端を行く革新派だったUWFへと合流。UWF解散後、藤原組を経てパンクラスを設立。
31歳の若さで総合格闘家としてのキャリアにピリオドを打ち、後に俳優へと転身。そして一昨年に再びMMAのマットへと復帰するも年齢と時代の流れには勝てず負けが込んでいるという厳しい現状。

同世代人として、ここまで波乱万丈な人生模様を我々に叩き付けている人物は他ジャンルを見渡してもなかなかいないだろう。

当日のチケットはすでに押さえた。
そんな生ける伝説が、因縁浅からぬ男たちと華々しい舞台で邂逅するシーンを間近で目撃出来る幸福。これはひとつの世界を長年見続けてきた者たちだけが分かち合える特権である。

若い人たちへ。
今、貴方たちの身の回りにある大好きなものを、これからも大切にし続けて下さい。
たとえそれらが時代の潮流から外れたり、逆境に立たされたりして一時輝きを失ったとしても、「アテが外れた」と安易に見限ったりしないで、常に自分の心の中に留めておけるよう心掛けて下さい。
そうすれば、10年20年後に、思い掛けないプレゼントが舞い込んで来るかも知れません。人生、捨てたもんじゃないよ。


船木誠勝 vs 鈴木みのる(1994年10月15日/両国国技館 )


善悪の彼岸

怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。
おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。

フリードリヒ・ニーチェ



プロレスラー・三沢光晴選手のご冥福をお祈りします。

焦らしに焦らされ(猪木のジャーマン)

若い頃は「心底に見たくて仕方がない」対象を拝めるのは滅多に叶わないことなのだと思い続けていた。また、そんなに簡単にこちらの願望が実現してしまうということなどあまりに呆気なさ過ぎて、逆に有り難みがなかったものだ。
自分が欲しい物と思うものはなかなか手に入らない。世の中とはそんなものだと普通に思っていた。

たとえば、70年代後期以降、猪木はまるで勿体つけるように滅多に伝家の宝刀であるジャーマン・スープレックス・ホールドをフィニッシュに相手を仕留めることがなかった。
日プロ時代はおろか、名勝負と謳われた一回目の猪木vs小林戦にすらリアルタイムでは間に合わなかった少年としては「映像」として猪木のジャマーンを見たことが皆無だったのだ。それこそ専門誌に再掲載された過去の試合の名シーンの写真を食い入るように眺めて胸を躍らすしか手はなかった。また、そのように空想する時間はとても楽しかった。

当時後継者と目されていた藤波が凱旋し、佐山タイガーが華麗にデビューした後、そのフィニッシュにジャーマン(あるいはその応用・派生のスープレックス・ホールド)が多用された。それは即ち、彼らがゴッチ-猪木ラインの直系の弟子であることの実に頼もしい証だったのだが、所詮はジュニアヘビー級である。師匠である猪木のジャーマンとは一発の重みと有り難味が違う。
だが、両者の美しいフィニッシュホールドを見るにつけ、猪木のジャーマン解禁への期待がむくむくと高まっていったのは事実である。

そんな頃、猪木は突如マスクド・スーパースターとの賞金vs覆面剥ぎマッチのフィニッシュで久々にジャーマンを出した。

「小林戦の時の首から落ちた後遺症でもうジャーマンは出来ないらしい」などと、まことしやかに事情通の友人が通ぶって語っていたのを憶えている。
友人の言う通りコンディションが悪いのか、あるいはスーパースターとの体格差故か、初めてリアルタイムで見た猪木のジャーマンは不格好だった。私が思い描いた、雑誌のグラビアで見た若き日の弧を描くような美しいブリッジを見ることは叶わなかった。

しかし、それまでの「もう二度と見られないかも知れない」という諦めと、こちらの想いの積み重ねと長い時間の溜めが混ざり合い、このフィニッシュを珠玉の瞬間にした。形の不格好さも「現在の猪木のありのままの姿」というリアリズムを十分に醸し出していたし、それを私はポジティブに解釈した。
もし普段から頻繁に猪木がこの技を濫発していたら、ここまでの期待と驚きとカタルシスは得られなかったであろう。

たとえ年月を経て様々な「真実」という名目の噂や裏情報を得たり、後から色々学習したとしても、その時の瞬間の私の感情は不変だし、何かを上書きして記憶を変質させる必要などないと思っている。それが過去の自分に対する誠実な態度でもある。



柴田のジャーマン

この写真のUPを待ってました。TV観戦から1日置いて感想を書きます。

総合格闘技のリングで、綺麗に弧を描いた人間橋。

MMA参入初戦の1勝から、実に2年振りの勝利を判定決着ながらもぎ取った柴田勝頼。
しかし、正直言って今回の対ミノワマンというプロレスラー同士の「番外地」的な試合は、これまで彼が臆することなく並み居る強豪たちと最前線で闘ってきた足跡を振り返ると、そのいかにも勝負論から外れたサシミのツマの如き「プロレスラー枠」としての扱いは実に残念な限りでした。日和るのはまだ早いだろう、と。

でも、改めて試合の写真を観てみると、やはりプロレスラー。実に絵になる。
これは他の純総合格闘家の試合写真群と比較するとよくわかります。

DREAM.8 ウェルター級GP2009 開幕戦

近年はPPVやネット配信などで手軽に、そしてじっくりと試合の映像を視聴出来る環境にある私たちですが、昭和の時代にプロレスを観始めた少年にとって試合の視覚情報は、会場に足を運ぶか、リアルタイムでTV中継を観るか(まだビデオもあまり普及していなかった)、あるいは専門誌のグラビアを食い入るように眺めるかしか手段がありませんでした。
中でも一番手っ取り早く、そして何度も繰り返し見られるのが雑誌に掲載されている試合の写真。

当時、カラーグラビアが掲載されている専門誌といえば「月刊ゴング」「別冊ゴング」「月刊プロレス」といったところでした。特に「ゴング」系列誌の写真は抜群に美しかったと記憶してます。そこに焼き付けられた猪木、藤波らの躍動する姿に魅入られました。

不思議なもので、生観戦やTV中継ではそれほど印象の強くなかった技やムーヴが、グラビアの静止画像で観ると実にドラマチックな「絵」として完成されていることが何度もありました。逆に、先に写真で見て期待していた過去の名勝負を改めて観てみると、意外と呆気ない内容だったり。
それだけ静止した写真のインパクトと、そこに内包されたドラマ性は、饒舌ではない故にこちらの想像力を駆り立てるだけの影響力が確実にあったと言えるでしょう。

おそらく当時は情報が少ない分、受け手は様々な妄想を膨らませ、また送り手(カメラマンや編集者)も「一発勝負」的なニュアンスで1枚の写真に全精魂とメッセージを注いでていたのでしょう。それが劇的な瞬間を捉えた「絵」となり、その試合の記憶を封じ込めて我々の脳内へと伝達されていたわけです。

しかしそういう手法も、80年代初頭のプロレスが黄金期を迎えて各専門誌が週刊化され、引いては「最も絵になるプロレスラー」猪木の選手としての衰退と比例するようにどんどん質が落ちていったような気がします(ビデオデッキの普及も影響しているかも知れません)。
お陰で受け手も送り手もビジュアルに対するテンションが落ちたのでしょうか、以降はロジックを駆使した「活字プロレス」が主流になっていきました。

...そしてプロレスと格闘技が完全に棲み分けされてしまった現在、真剣勝負のリングで猪木の末裔が黒いショートタイツ姿でジャーマンを繰り出す。そんなシーンが「絵」にならない筈がないでしょう。甘い考えかも知れませんが、この瞬間、柴田の意志は「格闘芸術」を遂行したのだと私は確信しました。

たった1枚の写真に、リング上の真実はすべからく投影されているのかも知れません。

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泰山 / TAIZAN

Author:泰山 / TAIZAN
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