硬派の宿命・野望篇

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此処にも一人

本件に関して私的な意見は一切書かない。この状況を直視し、その行間を汲み取って頂きたい。

福島県会津の豆腐屋である俺、汚染地での豆腐作りに嫌気がさし6/12をもって廃業決定! 「原発難民」として生きていく覚悟。事故と事故対応の不手際、情報隠しの東電や国、県の犯罪性を一生かけて追及する。豆腐屋をなめんなよ!less than a minute ago via web Favorite Retweet Reply



・豆腐屋おはら

・「豆腐屋廃業のお知らせ」

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新聞・テレビには載らない話(或る「硬派」志願者について)

今回の震災と直後の二次災害を受けて直接被災した・しないに関わらず、その後の生き方が必然的に変化することになってしまった人々は、居住している地域や年齢・性別・立場など関係なく、それこそ枚挙に暇がないであろう。
ここにもそんな男が一人。

・山本太郎、福島の親たちとともに文科省前で抗議活動!「何も行動しなければ、僕は自分を許せない」(Exsiteニュース)

・【オペレーションコドモタチ賛同者メッセージ】 山本太郎 02(YouTube)

・メロリンQ(高校生時代の山本)スペシャル(YouTube)

・山本太郎俳優(twitter)

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「硬派は非政治的発想の持主であるにもかかわらず、なぜ左右激突の現場に登場することができるのか。状況が硬派の跳梁なしでは打開できないからである。したがって、硬派の動きはまさに状況そのものといっていい。その結果、硬派は意識しようとすまいときわめてラディカルな政治的行動をしてしまうのだ。」(『硬派と宿命』序章「硬派とは何か」)

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私は彼を、豊浦志朗の「硬派の定義」に則って「前段階硬派」と見るが、如何だろうか。
賛否はさて置き、彼の今後の行動を注視して行きたい。

訣別(三発の銃弾)

原作版『野獣死すべし』で、伊達邦彦が犯行後に真田を射殺し、ドラム缶の中にコンクリ詰めにして東京湾へと廃棄したのは、単に共犯者の口封じの為ではない。

これは自身の中に流れるセンチメンタルなものの「最後の一滴」を絞り切る儀式でもあった。

伊達も真田もこの時点では、大藪初期作品の於ける多くの「伊達邦彦になれなかった男たち」と何ら変わることのない素性の「一犯罪者」に過ぎない。伊達はその敗北者たちの屍の群れから、まるで芥川の『蜘蛛の糸』のカンダタの如く一本の命綱(伊達の場合は自身の「器量」である)を頼りに抜け出し、只一人勝利する。その為には「もう一人の自分」である真田を生け贄にするしかなかった。

映画版『野獣死すべし』で、伊達邦彦が自身に恋心を抱く顔見知りのOLを射殺した理由も同様に、犯行を成立させる為に足枷となる自身の「あらゆる人間的なもの」を粛正する行為だった。

私は、伊達は彼女に心が傾きかけていたのだと思っている。事実、彼女と別れた後に一人自室で巨大なスピーカーに耳を当て悲壮なクラシック(曲名失念)を聴きながら苦悶するというシーンがあるが、これは伊達の中に残っていた人間性と、野獣たらんとする非人間性との最後の葛藤を描写しているのだと私は捉えている。

結果、伊達は自らの手で自身の人間的な「性(SEX)」を棄てた。

そして彼らと同様に、著者の大藪春彦も『野獣死すべし』という弾丸を文学界に撃ち込むことによって、自身が過去に耽溺し、かつ作家としての原動力となっていた「純文学」と完全に訣別したのはご存知の通り。

パーン。

パーン。

パーン。

と、三発の銃弾の発射音が、私の頭の中には今も木霊している。



Born to Lose

twitterに書き込もうと思ったけど、勿体ないから(?)こちらへ。

個人的見解として、現代の日本に於いて「大藪ヒーロー」たり得る資格を持つ者は、今の70歳代未満の人間には皆無だと思っている。何故なら、私たちは戦争を体験することによって初めて感ずることの可能な絶望や飢餓をまったく知らないからだ。

そういう意味で『猛き箱舟』に於いて、香坂正次の左腕を奪い、人としての人格や尊厳を完膚なきまでに破壊した船戸与一は絶対的に正しいと言える。そこまで追い詰められなければ、我々戦後生まれの現代人は「大藪ヒーロー」と同じステージに立つ資格はない。



知行合一

以前、当ブログでコメントを受け付けていた頃によく投稿して下さっていたlunaleclipse氏が、この度ブログを立ち上げられました。

「rascal2009の日記」

lunaleclipse氏とは旧ブログ "泰山堂通信『硬派の宿命』" 上にて、まず「UWF」、そして豊浦志朗時代の船戸与一が定義した「硬派」という二つのキーワードで繋がったのがそもそもの始まりで、そこからハードボイルド論やプロレス・格闘技などの話題へと発展していきました。

現在、氏とは直接の面識はまったくありませんが、情熱と理性が常にバランスよく保たれているその熱き文章を拝見し、コメント欄でのやり取りを続けて、「100%御自身の手によって支配された世界を読んでみたい」と思っていた矢先に、今回のブログ開設のご報告を頂いた次第です。

僭越ながら、改めてこの場にてエールをお送りするつもりで、lunaleclipse氏の文章を「rascal2009の日記」から引用させて貰います。

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夢枕獏は書いた。「やればできるということと、実際にやったということはまったく違うことだ」

知行合一という言葉がある。実際に行うことができて、それで初めて本当に知ったと言える、ということだ。

目的はある。理由もある。しかしそれに寄りかかってはいない。依存していない。純粋な行動。目的や理由のための行動であると同時に、行動のための目的であり理由である。

2009-07-12「私的・船戸与一論 その四」より抜粋)


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他人の軒先に第三者として押し掛けるのではなく、また、閉鎖的なSNS空間で内弁慶になるのでもなく、敢えて「自分の城」から遠くへ発信すること決意された氏のブログの今後の展開を期待しております。

永続する革命・平岡正明の死

「評論家の平岡正明さんが死去 ジャズ、落語など幅広く執筆」

ショックです。

平岡氏から放たれる、氏が敬愛したフリージャズの如く縦横無尽に躍動する刺激的な文体が大好きでした。また、こんな時代になっても自身を「永久革命家」と自認する肝の据わりっぷりは、決してブレることのない一貫した男一匹としての氏の生きる道であったと認識してます。

まず、完全無比なる「大藪春彦論」に触れ、その流れで豊浦志朗の『硬派と宿命』『叛アメリカ史』の存在を知り、船戸与一の屈強な世界観に到達したのも、すべては氏の評論が始まりでした。これは感謝しても仕切れません。

でも、死してなおその著作という遺産は残され読み継がれます。平岡さん、また古本屋でお会いしましょう。そして私をさらに鍛えてやって下さい。

私の脳味噌に多大なる爪痕を残してくれた平岡氏のご冥福をお祈り致します。

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今年に入ってからの相次ぐ大物著名人の訃報に、かなり滅入ってます。今後こうした流れはますます加速するでしょうけど...。人生は儚いですね。

まるでこれから羅針盤のない航行を続けて行かなくてはならないような。しかし、己の甲斐性を頼りに前進せねばなるまい、と肝に銘じて。

manifesto

さて、いよいよ5月に突入します。
気候も良くなり、これまで試運転的だった新年度も連休を明けたら本格始動といった頃合いでしょうか。私の場合もそんな感じです。

ここで念のため、当ブログのタイトルの「硬派」を、通俗的な「硬派」という言葉の意味と取り違えない様、改めて提示しておきます。以下、豊浦志朗『硬派と宿命』(世代群評社/1975年・絶版) より抜粋。

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 硬派は状況の最前線にいるが、実のところ、政治的なことについてはよく理解していない。政治的な発言はするが、それは状況を分析した結果というよりも、みずからの行動に光を与えるためである。硬派は目的を選ぶ。しかし、目的のために行動するのではない。行動するために目的を選ぶのだ。なぜなら硬派は行動していなければ窒息死してしまうからだ。行動こそが何にもまして重要なのである。かくして、通常、手段とされているものが目的化する。目的とされているものが手段化する。この逆転こそ硬派の最大の特徴である。

 硬派の出現は時代の要請であるが、誰でも硬派になれるというわけではない。硬派にはある魂が必要である。その魂は幼児期に古い英雄譚や伝説、お伽噺によって形成される。それがさしたる紆余曲折を経ずに直裁に行動の動機に結びつく信念に変わる。したがって、硬派がその信念を口にするとき、それはきわめて他愛なく聴こえる。しかし強固だ。

 硬派は孤独である。その行動は称賛されたり憎悪されたりするが、その動機は誰にも真の意味で理解されないからである。したがって、硬派は他者とは同盟を結んでも同志として共同体を構成することはない。共闘はしても完全な連帯関係にはいることはないのである。その行動が先行しすぎているか、あるいは遅れすぎて猿芝居になっているからだ。硬派はその孤独をいやそうとますます行動に走る。かくして、硬派は表面上いかなる共闘関係を保っていようと、永遠にはぐれ狼の宿命を背負わざるをえない。うち棄てられた野獣のごとく硬派は吠えつづけ、行動は烈しさを増す。その結果、硬派は裏切られ追放される。硬派の行動至上主義はかならず共同体の邪魔になるからである。裏切りの森を抜け、淋しさの尾根を越え、空しさの谷をはいあがり、硬派が辿りつくのはどんな頂か。

 硬派がその行動至上主義によって獲得しようとするものは何か。実をいうと、何もない。硬派はその行動によって富を得たり名誉を得たりするかも知れない。しかし、硬派にとってそんなことはほとんど意味を持たない。というのも、硬派の目的は行動することそれ自体にあるからだ。硬派の狙いは、行動の中に文学を描こうとしていることにある。



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